現在公開中のアメリカ映画、「J.エドガー」です。TOHOシネマズ六本木で鑑賞しました。
実は鑑賞前、いろいろな面で尊敬している映画好きの方から、こんなメールをもらっていました。
「なぜか、全く不可解な理由で、私は今、とある屋上駐車場で涙に暮れております。なぜこんなに泣けるのか、サッパリわかりません。『J.エドガー』という作品が、かくも私のエモーションを激しくかき立てた理由が分からないのです。あぁ、また涙が出てきた!」(原文ママ)
決して「泣かせる映画」ではないこの作品が、なぜにこれほどまでに彼の心を打ったのか、この映画を鑑賞した後である現在も、完全にはわかりません。(本人もやや不可思議に感じているようです)が、「そうであってもおかしくはないな」という程度には理解できたつもりにもなっています。
この映画の特徴として観た誰もが指摘すると思われるのが、その特異な構造です。晩年の主人公が伝記小説を書かせているところから始まるのは、さほど珍しいものではないでのしょう。が、全体の3/4くらいの映像が、実はエドガーの記憶を映像化したものであって、その中に多分に「ウソ映像」が含まれているということがラストで突然明かされるという構造は..!「え?これまでの映像って、ウソだったの?」という軽い衝撃を受けて、それを消化する間もなくエンドロールになっちゃうわけで、混乱する人がいてもおかしくはない気がします。
でもこの特異な構造こそが、この映画がJ・エドガー・フーヴァーという人物像を平板ではなく立体的に描き出すことに成功している最大の要因でしょう。伝記を書かせるということ自体も含めて矮小な部分を小出しにしつつも、しかし大筋では彼の業績を描く前半。女装癖や同性愛者であったというプライベートな部分や映画メディアを使って自己を大きく正しく見せるといった、彼の闇の部分(しかし同時に人間くさい部分)を描く中盤。そしてあっけなくそれまでの描写に「大どんでん返し」を与える終盤。時系列ではなく、彼の表層部分から徐々に内面に向かって掘り進め、最後に彼自身による事実の湾曲と記憶の捏造まで暴きだす…。
多くの人にとって自我とはその人の記憶そのものであり、たとえそこに脚色があったとしても、誰かに指摘されたりすることは少ないはず。しかし、フーヴァーのような歴史上の大人物の場合、さまざまな「記録」が「記憶」の誤りを指摘し、そのことによって(あるいは誤りの存在それ自体が)彼の矮小な一面を浮き彫りにしてしまいます。「記憶」と「記録」の差異を暴かれるというのは、フーヴァーにとって、いや誰にとっても(おそらくはイーストウッド自身にとっても)「されたくないコトの筆頭」なのではないでしょうか。そこまでしてイーストウッドが描きたかったとは何なのか…。
その1つはフーヴァーについて暴いたその事実そのもの、つまり「人間とはこういうもの」という現実、そしてもう1つは、アメリカ社会においてほとんどの人々が信じて疑わない(「当たり前」と思っている)安全や安心といった社会の基盤が、実はフーヴァーのような脆弱で矮小な人物の増幅された自我によって作られたものだということ、そしてこの社会は強固で盤石であるように見えて、実はみんなが大丈夫と思い込んでいるから大丈夫になっているだけであるという、「世の中はそもそも底が抜けている」ことの指摘なのではないかと現時点では思っています。
それにしても、「赦す」ことが最大かつ唯一の解決方法である場合があることを描いた「インビクタス」、人の一生は「いかに人と関わり、人と結ばれ、人を幸せにするか」で決まることを解いた「ヒアアフター」、そして今作。イーストウッドは(こう思いたくはないのですが)人生の終着点に向けて、自分が世界中の「後輩たち」に伝えられることを、後悔のないように伝えておこうとでも思っているような、そんな気がしてしまっています。あと何作観れるのか分かりませんが、しっかりと受け止めたいと思います。
個人的満足度:★★★★★
吉川マサルと申します。Webサイト












